夫(彼)を愛する技術

夫・旦那(彼)を愛する技術(第一回/愛の習練・規律)

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夫(彼)を愛するということ/愛の修練


愛するということ

夫や旦那・彼を愛するということはどういったことなのだろうか。



そもそも、愛とは技術なのか?



エーリッヒ・フロムの名著、『愛するということ』の第4章「愛の習練」を通して、夫や彼を愛するということは、どのようなことなのか?を僕といっしょに感じてもらえれば嬉しいです。



興味がある方は、『愛するということ』を購入してみて読んでみることをお勧めします。



生活環境やライフスタイルは人それぞれ。同じ本を読んでも、感じ方、解釈の仕方は違ってあたりまえ。



ましてや、男と女、まったく違う生き物。脳がそもそも違いすぎます。だから、僕の感じたこととは違った、また別の視点からの気づきがあると思いますよ。



人生で、1度は読んでおきたい一冊です。



『愛するということ』の第4章・「愛の習練」を、何回かに分けて僕なりに、オスの本性や本音も交えながら解説していきますので、よろしくお願いします。


『愛するということ』第4章・愛の習練より


P160『愛するということ』第4章・愛の習練より


愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。実際にほとんどの人は愛を、すくなくとも不完全な形でなら、子どものとき、思春期のとき、あるいは大人になってから、経験したことがあるはずだ。



愛の習練に関する議論に何ができるかといったら、愛の技術の前提条件、愛の技術へのいわばアプローチ、そして、それらの前提条件とアプローチの習練について、論じることだけである。



目標への階段は自分の足で登っていかねばならない。




「愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。」と本の中でフロムは伝えてるね。



愛するということは、本で読んだり、映画やドラマで観たりするのではなく、自分で経験しなければいけない。それは、当たり前のことで誰でも知ってることなのだけど、あらためて言われると、当たり前すぎて、逆にドキッとしちゃう部分でもあるよね。



「愛すること」というのは、どんなに頭で考えても、自分の足で一歩踏み出すという経験に勝るものはない。誰かを愛するという体験はとても貴重な時間。



目標への階段を自分の足で登っていかなければいけないということは、愛は与えられるものではなく、与えるもの。自分の足で登っていくというイメージは、誰かに「してもらう」ということではなく、自分の力で動く。



誰かが与えるまで待っていたらダメなんだ。自分から積極的に与えること。愛されるのではなく、愛するという愛の主導権は100%自分にあるってことだね。



愛とは、愛されるという受け身の姿勢ではなくて、愛する、という積極的な姿勢。



要するに、見返りを求めない、ということ。



それは、お互いを尊重しながら、相手を愛することだけに徹している、夫婦やカップルは、何年たっても仲が良いし、ラブラブだ。



その根底にあるのは、やっぱり、謙虚な気持ちで相手を尊重する、という姿勢なのではないかと思うよ。



そのことを、フロムは、『愛するということ』の中で「目標への階段は自分の足で登っていかねばならない。」と表現したんじゃないかな。



与えられるのを要求するのではなく、相手を尊重して与えること、ということを。


P161『愛するということ』第4章・愛の習練より



どんな技術であれ、その習練を積むためにはいくつか必要なことがある。それは、大工の技術であろうと、医術であろうと、愛の技術であろうと、まったく同じである。



まず、第一に、技術の習練には規律が必要である。



規律正しくやらなければ、どんなことでも絶対に上達しない。「気分が乗ってる」ときにだけやるのでは、楽しい趣味にはなりうるかもしれないが、そんなやり方では絶対にその技術を習得することはできない。




愛する技術を習得するには、規律をしっかりもっていなければいけない、とフロムは言っています。



この「規律」ということは、自分を律するということで、簡単に言えば、自分自身との『契約』。



誓い、と言ってもいいかな。



夫や彼を愛するということは、まずは自分自身と契約することから始まるということです。



どういうことかというと、愛するということは、つねに自分自身が主導権を持っていて、契約を続行し続けるのも、契約を途中で破棄するのも、自由だということ。



つまり、愛するということは、気分が良いから誰かを愛するのではなく、状況や気分というものに左右されず愛する。



愛する、ということは一見、感情や気持ち、二人の関係や状況によって左右される『心』のようなものであるように感じるかもしれないけど、実は、自分1人で完結する、自分自身との契約なのである、と。



浮き沈みのある気持ちや気分といった感情の変化ではなく、それすらも感じることがないくらいのシステムのようなものが愛するということ。



これって、何だか機械のようで冷たいように感じるけど、相手と何かを賭けての誓いではなく、自分自身との誓いによって、この人を愛する、という覚悟のようなものを感じるんだよね。



『覚悟』という表現が合ってるのかわからないけど、覚悟というものが、盲目的な意味合いではなく、もっと客観的に自分自身を見つめ、常に俯瞰することで、謙虚な気持ちになるということなんじゃないだろうか。



そういう風に考えてみると、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』はとても高度はコミニケーションだ。



本当に難しい。



だけど、それを自然に実践してる夫婦や、カップルはたくさんいるよね。



文字にすると難しく感じるけど、自分自身に規律(ルール)を持って、お互いに謙虚で尊重し合う二人になることは本当に素晴らしい。



愛するということは、夫や旦那・彼のことを考えることから始まるのではなく、実は、自分自身を客観的に見つめなおすことから始まるんだね。



その、第一歩が、規律という、自分との契約なんだ。



愛するということの始まりは、自分を客観的に見つめることから始まる。



誰かを愛するということは、個人の責任と規律からスタートするというものなら、愛という概念は、個を尊重する西洋人が持ち込んだものなのかな・・・



規律ということは、とても西洋的な考えのような気がするよ。



だから、今僕たちが映画やドラマで観ている『愛』や、歌の歌詞の中で使われてる『愛』、それに、日頃から考える『愛』って、西洋人が世界中に広めた『愛』なのかもしれないね。



もともと、今のような愛という概念は、日本になかったのかも。



そして、結婚指輪に現れるように、永遠の愛をお互いに誓い合う、従来の西洋的な『愛』の形とは、また違った、もう一つ違うレベルの愛について、フロムは語ってるんだとするならば、愛とは、永遠の愛をお互いに誓い合うのではなく、規律という形で自分自身に誓うことが、本当に他者を愛するということなんだ。



そう考えると、愛とは、何か奇跡や偶然が積み重なって、ある日突然『落ちる』のではなく、100%自分自身の責任でスタートできる素晴らしいもの。



いや、個人的には、運命の糸に引き寄せられて、ある日突然『落ちる』愛というのも否定はしないよ。



むしろ、そこからスタートする愛があってもかまわない。



スタートはどうあれ、愛するってことが、100%自己責任なら、始めることも自由だし、辞めることも自由なんだね。だけど、それはある意味、とても厳しい。



お互いに、謙虚になって相手を尊重しなければいけないよね。



愛するということは、相手を束縛したり支配するものではなく、100%自己責任ということを自分自身に誓うこと。



まず第一に、愛する技術の習練には規律が必要であるんだね。


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